季楽vol.18「冬」

花食譜お茶のひととき歌舞伎の美学こらむ和菓子の周辺


花食譜-花を食べる風流 露草を食す

露草は日本各地の路傍や、小川のふち、畑、草地などにごくふつうに見られる1年草です。
高さ15〜30センチ程の、いかにも愛らしくはかなげな花ですが、意外と生命力は強く毎年春になると、こぼれた種が発芽。地面を横に張った茎から盛んに分岐して株状となり、群生します。
コンクリートで舗装された市街地では目にすることは少くなりましたが、少し郊外に出ればあちこちに生えていて、あわただしい朝の出勤時の、犬を連れての散歩のつれづれの心を安ませてくれ、日本の国土に、小さな青紫の彩りをそえています。
「露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し」(禅寺洞)という句があるように、農作業や草刈りにかかる前は、鎌の切れぐあいを試すほど昔は沢山自生していた花でした。
花期は長く初夏から初冬にかけ可憐に咲きますが、今号は露をいただき瑠璃と咲くこの露草のはかない「1日のいのち」をいただきます。

朝露の精だから和名は「露草」

宝石の瑠璃にたとえた例があるように、露草は詩心をくすぐる花です。『不如帰』や『自然と人生』の著書で知られる小説家の徳富蘆花は、『みみずのたはごと』(大正2年)のなかで、「花では無い、あれは色に出た露の精である」といっています。
師も弟子も持たず、東京の郊外に隠棲し、晴耕雨読と思索の日々を送った盧花の溜息を誘った神秘の花でもありました。
この可憐で神秘性を持つ花の学名はコムメリーナ・コムニス(Commelina communis)。かつてオランダにはコムメリンという学者が3人いて、そのうちの1人、J・Gコムメリンにちなんだのが属名のコムメリーナです。

イメージ1 露草の花びらは3枚で、上側の2枚が大きく目立ち、下側の花は目立ちません。博物学者のリンネは、3人のうち目立って業績のなかった学者の名を取って命名したといわれています。種小名は「ふつうの、通常の」という意味ですから、これがほんとうに命名の由来だとするとよくできた話ですが、露草らしいロマンチックさはツユほどもありません。
日の出から日没までの花の意から、英名ではデイ・フラワー(day flower)とよびます。和名の「露草」は、朝露を受けて咲きだすことからついた名です。古くは花で布を染めたので「着草」転じて「月草」。
同種のものにウツシバナ、ソメバナがあります。花を包む苞の形が編み笠や帽子の形をしていることから、「ボウシバナ」の名も。そのほかに螢草、青花、花田草などの名でよぶこともあります。

恋心を託して露草の縹色

私たち日本人は、うつろいとはかなさをことのほか愛してきた民族です。早朝露にぬれながら咲き午後には凋む、1日かぎりのいのちを咲かせる露草は、蘆花のみならず、古来から多くの人々に愛されてきました。
万葉人たちは、「朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我はするかも」(『万葉集』卷第十)とうたっていますし、平安朝の女流歌人たちも「露草にそめぬ衣のいかなれはうつし心もなくなしつらん」(『和泉式部集』)などと詠んでいます。
露草のはかなさ、うつろいやすさに恋心や自らの心情を託した歌ですが、『万葉集』にはこうした露草を詠んだ歌が九首記載されています。「月草に衣ぞ染むる君が為 綵色衣摺らむと念いて」もそのなかの一首にもあるように、奈良・平安の昔は、露草の青い花のしぼり汁で布を染めました。7・8月ごろに摘んだ花をもみ、この汁で布や和紙を染めました。その色が「縹色(花田色)」です。
くすんだ青といいますか、藍染めの浅葱と藍との中間くらいの濃さの色で、上代の服制では八級の色とされています。浅葱色も縹色も現代の若い人たちにとっては聞きなれない色でしょうが、ごく最近までは身近かだった色名です。
「小鳥らの うたはきこえず 空は今日はなだ色らし」(『山羊の歌』朝の歌)は詩人の中原中也。「余の空も浅黄より縹となり、紫となり、宵の明星1つ夕日の跡に生れ出でぬ」(『自然と人生』秋晩の佳日)と綴っているのは前出の徳富蘆花です。露草から生まれた色は、空を語り、人生を語る修辞色とされていた時代もあったのです。
胡麻和え
胡麻和え
葉と茎(太めのものは薄皮をむいておく)を湯がいて、胡麻醤油で和えます。

藍の渡来後は下絵用に生きる

万葉時代、中国大陸から藍が渡来するようになってから露草染めはすたれてしまいました。水と光に弱く、色があせやすかったのが理由です。色あせは摺染めの染料としては弱点だったのですが、簡単に脱色できるという特性をいかしたのが、友禅染めの発案者とされる宮崎友禅斎です。友禅染めや紋染めの下絵を描くのに、水で洗うとすぐに消えてしまうという特性を持つ露草の花汁が重宝されました。
滋賀県草津市には、露草の突然変種であるオオボウシバナ(大帽子花、アオバナともいう)の栽培農家が残っています。性状はまったく露草と同じですが、花は大きく10倍ほどあります。下絵用に利用するには露草では小さすぎて足りず、変異種を使うようになったものと推察できます。
早朝に摘んだ花のしぼり汁を典具帖という特定の和紙に刷毛で何度も塗り、染み込ませて乾かします。こうした根気のいる作業でつくられるのが「青花紙(青花ともいう)」です。
青花紙は正徳二年(1712)には近江(滋賀県)や伊勢(三重県)で売られていて、宝暦年間(1750年代)には大規模な栽培が行われていたそうです。
露草の玉子炒め
露草の玉子炒め
葉と茎を適当な大きさに切り、とき玉子を加え、塩胡椒で味を調え炒めます。

悲しいほどにあえやかな味、です

中国では露草のことを鴨路草と書きます。乾燥させたものを日本では「おうせきそう」とよび、煎じて解熱、利尿剤や下痢止め、喉の痛み止めなどに用います。皮膚病や虫にさされたときに塗るほか、露草入りのお風呂に入ると、かぶれやあせもによく効くなど、民間薬としていろいろと利用されてきました。藍染めの野良着と同様、虫除けの効果も大だそうです。日本手拭などを染めてみて、夏のガーデニングで使ってみてはいかがでしょう。
露草は群生しているため、摘み採るのはかんたんですが、おいしく食べるためには手間がかかります。手がかかるのは花食譜に登場する料理の共通点で、しかもあっという間に口中に消えてしまいます。はかなさこそが醍醐味なのです。
詩集『食後の唄』(大正8年)で知られる詩人の木下杢太郎は、医学者、食通としても高名な人でしたが、50余種の山野草や花を食べた感想で、佳品としてアカザの実の佃煮、歯当たりの甚だ好いタチツボスミレの天ぷら、いろいろと使い道のあるタンポポと述べ、「露草の新芽は今年初めて試みたが、大いに推奨するものである」とその著『葱南雑稿』に書いています。
杢太郎は白秋らと「パンの会」を結成し、バーやキャフェに通いづめる一方で女義太夫に浮き身をやつすという、明治末期の江戸情緒と異国趣味の耽美を好んだ人です。「該里酒」を飲みながら彼が試みたかもしれない新芽や幼葉、やわらかい茎の露草料理はいかがでしょう。
調理に入る前に、茎は薄い皮をむいておくこと。熱湯にとおすと透明感のある美しい色に仕上がります。だし汁たっぷりの煮びたし、味噌和えに辛子和え、すり胡麻を加えて辛子胡麻和え、、煮物などにします。油炒めや天ぷらにも向きますが、天ぷらにする時は庖丁でかるく傷をつけておく方が油はぜしません。花は彩りに添えます。
ご馳走があふれすぎてるいまだからこそ、ただただ上品で、淡白というこの言葉につきる露草の味がいっそう貴重に思えます。
露草の煮びたし
露草の煮びたし
お揚げと一緒にだし汁でいただきます。ほっこり温まる一品に…。

TOP

花食譜お茶のひととき歌舞伎の美学こらむ和菓子の周辺
お茶のひととき
イメージ 旅は道連れ 世は情け。時刻表を開いて駅弁買って。そうそう、お茶もお忘れなく。 イメージ
一分間の停車時間で帰るもの、キオスクの新聞、駅弁。お茶のひとときの5分間で読める駅弁のこと。
年中無休の駅弁のはなし 日本には昔から「弁当はじめ、弁当おさめ」という言葉があります。お花見で今年はじめて弁当を使うことを「弁当はじめ」、紅葉のころに、今年最後に弁当を使うことを「弁当おさめ」といいます。
弁当おさめになると、行楽シーズンはお仕舞いとなり、お祭り好きにとってはさみしいことです。でもあきらめることはありません。駅弁のシーズンは年中無休、なにかお弁当をというときには、駅まで出かけて駅弁をみつくろうという手があります。
国鉄時代に大動脈といわれ、日本全国に張りめぐされていた鉄道は2万キロで、駅の数は5、000駅以上。なんと1億個もの駅弁が売れた時代もあったそうです。
駅弁の販売数は激減したものの、最近は大阪駅の八角弁当など、ひと工夫した弁当も出て、駅弁人気は安定しているようです。


握り飯2個の駅弁事始め 駅弁の第1号は、明治18年の7月に宇都宮駅で売り出されました。握り飯を2個にタクアンをそえ、竹の皮で包んだだけの質素なもので、お値段は5銭。当時は精白米が1俵6円53銭だったそうですから、手間も材料費もかかってない割には高価でした。明治32年に、山陽鉄道に食堂車が連結されたとき、三等旅客は食堂車への出入り禁止で、駅弁か、持参の弁当でもという扱いだったらしいのですが、三等旅客には駅弁も手軽に買える値段ではありませんでした。
ついで2番目が、後に峠の釜めしで駅弁の王座に座り続けた横川駅、続いて高崎駅に登場しましたが、東海道本線におめみえしたのは明治21年になってから。いずれも握り飯弁当だったとのことです。
駅弁は当初は汽車弁当、略して汽車弁といっていました。明治から大正に育ったひとは、いまでも駅弁を汽車弁とよびます。いつから駅弁にかわったのかいまだ?のままです。
イメージ
イメージ


歌は世につれ駅弁も世につれ 駅弁には特殊弁当と、万人好みのおかずが主体の普通弁当があります。かまぼこ、卵焼、魚料理を「三種の神器」とよんでいますが、値段が上がるにつれて、神器の数も3種から7〜8種へとふえています。
汽車弁当といっていたころに弁当も竹皮包みの握りめしから昇格。ご飯と惣菜類が別々の折りに入っていました。このころには立ち売りのお茶も登場。旅の道づれ、駅弁にお茶というスタイルが確立されたのでした。
歌は世につれといいますが、駅弁も同じこと。日露戦争のときは値段も3割上がり、昭和5年の不況時代に入ると、上弁は2割値下げ。7銭だったお茶も5銭に値下げしたものの、日中戦争に入るや、8銭に値上がりと激動の時代を生き続けてきました。
岡山駅の祭りずし、鳥取県のかにずし、京都駅の松茸めし、福知山駅の鮎ずしと各駅に名物弁当が目白押し。駅弁を買って旅の気分を味わうのも1興です。年が明ければ、百貨店の駅弁大会へ。おせちのあとは、駅弁にかぎります。

TOP

花食譜お茶のひととき歌舞伎の美学こらむ和菓子の周辺

歌舞伎の美学シリーズ
衣装「いしょう」
色と意匠の妙

歌舞伎の語源は「かぶく(傾く)」という言葉だといわれている。出雲の阿国が颯爽とデビューした時、人々はその男装に傾いたモダンさに圧倒されたのであった。傾くとは、ふざける、放縦のことである。したがって歌舞伎のはじまった当初から衣裳も型にはまらない奇抜さを特色としてきたのである。
歌舞伎役者は、往時スーパースターであり、彼らが着る衣裳や色がファッションとなった。今に残る「団十郎茶」や、「市松模様」などが一例として知られている。団十郎茶は江戸の歌舞伎役者、市川団十郎代々の十八番「暫(しばらく)」の名場面で用いる衣装の色で、五代目団十郎の人気にあやかって大流行。
市松模様は、徳川吉宗の時代に、江戸中村座の役者佐野川市松が紺と白の碁盤縞の袴を着用したことから起こった。ほかにも五世中村歌右衛門(俳名芝翫)が好んで用いた芝翫茶ほか、路考茶、菊五郎格子など同例のものがある。
衣裳の柄や色使いが全般的に派手で大胆なのは、江戸では昔、自然光のもとで芝居が上演されたことと、客席が飲食を伴っていたため結構騒がしかったことに大きな理由がある。役者はあらゆる手法を駆使して観客の注目を集めねばならなかったからだ。
さらに歌舞伎の衣裳は、一目で登場人物の役柄や人物像を表現できるものでなければならない。舞踊の『鷺娘』では、まっ白の衣裳を着ているときは、白い鳥の精霊であり、一瞬のうちに「ひきぬき」という方法で赤いきものにかわったときは、町人の娘となり、上半身が火炎の衣裳にかわったときは、地獄に落ちる鳥を表現するというように、衣裳の変化や色の変化など外面の変化で人物の内面をみごとに表現したりするのである。
むかし日本では、地位や身分によって衣裳にもきまりがあった時代が存在した。歌舞伎の世界でもきまりに基づいて衣裳を決定したため、衣裳で身分などが一目でわかる。
しかも独自の工夫を加え、身分だけでなく人物の格好や本質までも表現できる衣裳の定型化を完成させた。例えばお姫様は、誰がいつ演じようがほとんど真っ赤の生地に金糸の縫い取りで、帯は黒繻子に同じく金糸の縫い取りという衣裳だった。
歌舞伎衣裳の特色は様式性(ディフォルム)と日常性(リアリズム)、不定形と定形美が1つになったもので、俳優や役者を美しく見せたいための工夫や精神が、デザインとなり色となり、衣裳となっているのである。
歌舞伎絵師・穂束とよ國 画
歌舞伎絵師・穂束とよ國 画
平成16年南座 顔見世興行芝居錦絵歌舞伎十八番の内「暫」

TOP

花食譜お茶のひととき歌舞伎の美学こらむ和菓子の周辺

こらむ
女扁の文字
同窓会などの場で、つねづね実感するのは女3人寄れば、の例の諺である。年を経て、オバサンと呼ばれるころからいっそうこの感は強くなるが、男とてその例外ではない。自分の奥さんの悪口、上役の陰口、野球とゴルフ(これしかないのかしらン)の話と、男という文字を3つ重ねて読ませたいほどにカシマシイのに、何故か「姦しい」となる。
感情を表現する文字に男扁の漢字が少いのはなぜだろうか。しかも女扁には「好ましい」文字は少くて、「怒る」、「妨げる」、「嫉妬する」など、嫌な文字が妄りに多い。
昨今は、男か女か、性別不明の男が多いにもかかわらず「妖」とは何ぞや‥‥と理詰めの女性群に男性群タジタジ。意気上がる女たちにはさまれ、男一同嬲(??)りものとなって、今年の同窓会は散会した。ヤレヤレ。

イメージ

TOP

花食譜お茶のひととき歌舞伎の美学こらむ和菓子の周辺

和菓子の周辺
柚子「ゆず」について
むかし「菓子」といえば、果物かまたは加工度のきわめて低い自然果をさしていました。
平安時代の大饗や大甞会の供進物に、搗栗や干柿などとともに菓子(木菓子)として
姿を見せるのが柚子です。
実を菓材とした菓子で最も普遍的な和菓子といえば、柚子の菓子‥‥ではないでしょうか。
イメージ


すっぱい、「柚の酢」いかつい、「鬼橙」面白い、柚子の別名
柚子は古名を「柚」。訛って「柚」とよぶ地方もあり、柚子、木柚などの別名でよばれることもあります。承平年間(931〜938)に書かれた日本最古の漢和辞書『和名抄』には「…由似橙而酢」とあり、江戸時代の『本朝食鑑』は、汁をしぼって醋に代える。由に東俗では「柚の酢」、「由須」と訓じるなどと記載しています。同意の別名に酸蜜柑という名も。
そのほか、果皮の肌が荒く、でこぼこしているので、「鬼橙」なる、少しこっけいで、いかつい名前も持っています。
イメージ 近縁種には、酸橘・かぼす・花柚・柚香・木酢・清岡橙などがありますが、柚子は中国から朝鮮を経てもたらされた渡来種。『続日本紀』に「戊辰、往々京師に隕な石あり、其の大きさ柚子の如し」と、奈良の都に降った隕石の大きさを柚子にたとえた一文が残されています。この時代、すでに柚子の栽培種は珍しい存在ではなかったことを物語っています。
柚子の開花期は、5・6月。五弁の白い花をつけたのち、7月末には 小さな実をつけ、11月ごろから翌年の1月にかけて成熟し、黄金色に色づきます。
柑橘類のなかでは、もっとも耐寒性にすぐれ、北は岩手から南は宮崎まで、栽培地は広範囲。京都の水尾や、大阪府の箕面、高知県などは、特産地として有名です。

元気の素、柚子成分美人をつくる冬至の柚子湯
柚子はカルシウムやエネルギーのほか、カロチンをはじめとするビタミン類、炭水化物、柑橘香酸の代表で代謝作用を高め、健康体をつくるクエン酸を多量に含んでいます。
先述の『本朝食鑑』の文中にも「菜や魚の毒や、酒毒を解する」と書かれている通り、柚に含まれている成分が元気の素であることを私たちの祖先は体験的に熟知していたにちがいありません。
節分に柚子を食べると長生きするとか、薬師の日に柚子に味噌をつけて食べると腹痛にかからないという民間伝承からも、柚子が薬用として用いられてきたことが推察できます。
冬至に中風封じの南瓜を食べる風習を「冬至、とうなす」などといいますが、冬至の柚子湯も同様に「冬至には湯治」とか、「柚子は(お金を)融通」とかいって、洒落の好きな江戸っ子たちの間で大流行したとのこと。今でも柚子湯をたき、柚子をお土産にサービスする粋なお風呂屋さんもあるそうです。
もともと冬至は、24節気の出発点で、農耕に再生の力をもたらす「一陽来福」の日。つまり太陽が一番遠ざかり昼間の最も短い日で、冬至を境にあとはどんどん日が長くなっていく、再生に転じる日のことです。「新しい太陽の誕生日」ともとらえれ、柚子湯はその禊ぎの名残とも言われています。
柚子の独特の香気が魔除けになると信じられ、柚子湯に入って身を清めるとともに、1年の疲れを取り去り、からだをあたためながら来年の健康を願うという意味がこめられています。
柚子はまた昔から、万病のもとである風邪の特効薬といわれてきました。皮に含まれている芳香油は、湯冷めを防ぎ、刻んで身体をこすれば、ひびやあかぎれなどの治癒薬となり、素肌美人をつくるといわれています。
柚子湯が年に一度の催し湯としてだけではなく、薬湯として、生活習慣として根づいたのは当然。最近では、家庭の内風呂用の入浴剤にも柚子入りのものが登場し、その薬効をうたっています。
イメージ

日本の食文化に香りの一滴古雅な柚子菓子
「桃・栗3年、柿8年、柚子はスイスイ18年」という諺があります。実生の柚子は、諺通り、結実までに長い年月がかかりますが寿命も長く、百年を超す長寿の巨木も現存。元気に実をつけているとか。「柚寿」と当て字で書かれたりもします。
お正月のしめ飾りや蓬莱飾りに、橙ではなく、柚子を飾る家があるのも、柚寿という縁起をかついでのことでしょう。
薬湯や風邪の特効薬、はては正月の蓬莱飾りと、用途の多彩な柚子ですが、古来から日本の食文化(とりわけ、料理と和菓子)の一翼を担ってきました。
まず、料理。酸味が強く、香りのいい柚子の果汁、柚子酢を主体としたポン酢は、和食にかかせない調味料ですし、風味が日本人の心に郷愁をさそうのか、サラダのドレッシングとしても歓迎され、柚子ジャムやマーマレードも登場しています。また高知では寿司に柚子酢が主流だそうです。
果皮を浮かせた吸物やお漬け物、果皮と果肉に砂糖、または味噌を入れてつくる柚練や柚子味噌など香りゆたかな一品も。柚子釜は、果肉をくりぬいて器代りに使い、魚や貝類、野菜の和え物をつめ、柚子の蓋をそえたもの。料亭の品書などに登場します。
さて、主題の柚子菓子は、昔の菓子の形や風味を色濃く残したものがほとんど。代表菓に、柚餅子、柚練、柚子羊羹、柚餅などがあります。
柚子の菓子は、郷土菓とでもいうべきでしょうか。同じ菓子でも地方によって、材料や製法のちがう郷土色の多いのが特徴です。
その一例が「柚餅子」。糯米と粳米の粉、いわゆる米粉に砂糖と味噌と醤油を加え、柚の汁を混ぜて蒸し上げます。
和歌山、岡山、徳島、宮崎など柚子の主産地の各農家や、和菓子の老舗では、丸柚餅子、棒柚餅子など独自のものが作られています。
室町時代の『茶会記』にも、麩の焼とともに茶菓子としてしばしば出てくる伝統の菓子です。
和菓子でもあり、料理でもあるのが「柚練」。熟した柚子を煮つぶし、水飴と醤油を加えて煮つめたもの。古くなったものほど美味です。
手軽なお土産物になったり、品のいいおつかいものになったり、日々のお茶請けに重宝したり、お茶会に登場したりと、素朴ながら古雅なのが、これら柚子を使ったお菓子のうれしいところ。日本の風流香りたつ香菓に、柚子はかかせません。
柚子味噌

TOP
花食譜お茶のひととき歌舞伎の美学こらむ和菓子の周辺



Back/Next