「鍵善」のありようは、祇園と切り離しては考えられません。八坂神社の門前町で、格式高い花街でもあるこのまち。江戸のころから、人々は祇園に来たら清水寺にお参りし、三年坂を降りて下河原に行き、次いで八坂神社にもお参りしてから四条通に繰り出し芝居を見たり、お茶屋に遊んだりしたものでした。江戸の初期につくられた芝居小屋は7座もあって、まち全体に芸能の色が濃く、芸能と宗教、遊興が渾然一体となっていたようです。もっとも、芝居小屋は明治に入ると四条通を挟んで北座と南座だけが残り、明治26 (1893)年には北側芝居も廃座となって、芸能の色合いは弱まってしまったのですが。
さらに祇園を特徴づけるのは仕出しの文化です。お茶屋は料理をつくらず、仕出し屋から料理を、菓子屋から菓子を取り寄せます。菓子屋はお茶の準備を頼まれると、お鉢に生菓子を盛り合わせて持っていき、抹茶碗を始め、道具一式の貸し出しもするのでした。菓子箱や行器(ほかい)がきらびやかなのはそのためもあったのでしょう。
12代の善造が熱心に取り入れた民芸は、今も店内に息づいています。なかでも、黒田辰秋さんの菓子棚は特別で、どっしりとした存在感です。
黒田さんがまださほど有名ではなかった時代、善造はその才能に惚れ込んで、店の内装すべてを任せたいと考えていたようです。善造が黒田さんにいただいた茶道具なども残っており、親交の深さが窺えます。清水の家から、奥様と連れだってよく店に来てくださっていたそうです。
陶芸家の河井寛次郎さんとも親しいお付き合いがありました。河合さんにはよくお菓子を配達したという記録がありますし、大きな壺を始め、寛次郎さんの作品が店内にも残っています。
このふたりを軸に、当時の文化人が「鍵善」に集うようになり、夕方ともなると、店の小上がりや店頭は大いに賑わっていたようです。ものづくりの作家による器や調度品も、いつしか増えていきました。
ちなみに、おふたりが店でいっしょになることがあったかどうか、定かではありませんが、店には黒田さんの額に入れた、河井さんの書「くづきり」を掲げています。
店を再開したとき、京都を訪れていた武者小路実篤さんに屋号を揮毫していただきました。今でも店内に飾ってあります。
その後も、多くの文筆家や歌人の方々が店や菓子について書いてくださいました。「くずきりは京の味の王者だと思う」という水上勉さんの名文や、「むかし祇園祭にあでやかな女人たちが、それぞれに装いをこらした行列『園の賑わい』がありました」から始まる、岡部伊都子さんの随筆。また、歌人の荻原井泉水さんによる銘「甘露門」は、菓子店をうまく表現していただいたと思い入れの深いものです。
先代・知夫が出会ったなかでは、挿絵家で絵本作家の鈴木悦郎さんとはお付き合いが長くなりました。悦郎さんの絵そのものはもちろん、とりわけはんなりした色づかいが気に入って、包装紙のデザインなどをいくつも手がけていただいています。
素晴らしい表現者の言葉や意匠に支えられ、こんにちの「鍵善」はあるのです。